ミュージック・フロム・でかぴんく

大日本カルト共和国衰退の歴史。

瀧に三葉に青葉に佐倉 『君の名は』?名付けと呪いの倫理学

ゲボドラマ

 

一昨年の冬、あるドラマが狂ったように流行っていたのを覚えているだろうか。

『silent』Official髭男dismの主題歌とともに爆売れした大ヒットドラマだ。

中心となるのは、主人公の女性と、元恋人、現恋人の幼なじみの間の三角関係だ。順調だったはずの関係に一方的に別れを宣告され、気持ちを清算できないままになっていた元カレと偶然街で再開したところ、彼はなんと聴覚障害者になっていた。彼ともう一度本音で心を交わすため手話を学びはじめた主人公は、その過程で過去の関係を反芻し、現在の生活にも徐々に変化を与えていく……

 

明らかにコミュニュケーションをテーマにしたドラマである。登場人物たちがお互いを気遣い、繊細な内面に向き合おうとする健気な努力が視聴者の心を掴んでいた。

私はこのドラマをはじめて見た時、この国は病気だと思った。

 

まず、コミュニュケーションを描いているはずなのに、役者がまるで独り言でも言っているかのような喋り方をするのだ。存在しない港区の人間が、意識が飛びそうになるほど空虚な言葉を、存在しない間のとり方で話し、ひと通り満足したところで髭男が流れるだけのドラマだ。本当に吐き気がする。

 

はじめに断っておくが、私は『silent』を断片的にしか見ていない。ストーリーも覚えていないし、結末も忘れた。あんなものを2分でも継続して視聴しようものなら、たちまち脳が焼き切れてしまう。

 

つまり何が言いたいかと言うと、私が今回問題にするのは、ドラマの筋書きとか、細かい演出の内容などではないのだ。そういう仕事は脳みそがタフな人に任せたい。私が考えたいのは、この吐き気の正体だ。この作品全体に充満する空虚さと欺瞞が一体どこから来るものなのか、それを知りたい。

 

「ない」ドラマ

観点を尖らせていくならば、登場人物の内面描写や、コミュニュケーションに対する演出など、細かい表現を批判の対象にして論じることも可能であろうが、パートタイマーの私にそんな体力は無い。そういうチマチマした話を一旦横に置いて、この作品の気持ち悪さを、敢えて一言で言ってみよう。

 

「こんな人間はいない‼️」

 

こんな人間はいないのである。そもそもなんだコイツらは。全ての夢が叶うと言われるパラレルワールド「港区」で恋をする、この人達一体誰なんですか?

 

私がこのドラマに最も違和感を感じる点は、登場人物のネーミングの抽象性である。
3人の名前はそれぞれ、

 

青葉紬(あおばつむぎ)、佐倉想(さくらそう)、戸川湊斗(とかわみなと)。 

 

お分かりいただけただろうか?こんなヤツらいないのである。
彼らは、作中では専ら「あおば」「さくら」「みなと」と呼ばれているが、なんと絵文字みたいな名前だろうか。
🍀、🌸、🏖。これらの記号的な名前は、「歴史」の痕跡が意図的に排除されたネーミングである。

 

名前という地獄

それが人間として産まれた者の名前である限り、姓は自分では選べない。だからこそ、名字には血縁や歴史の因果が色濃く現れる。姓は言わば、存在の「どうしようもなさ」を象徴する部分だ。


同時に、名の方も、人間のしがらみそのものだ。現代では、親は子どもの名付けに将来への思いを込める。それは祈りであると同時に、呪いでもあるのだろう。そうでなくても、「〜郎」や「〜子」といった旧来の名付けの様式は、生まれた子どもを社会的な性や、周りの親兄弟との関係・序列に組み込む役割を果たしている点で、ある種の呪術と言えるだろう。

 

創作においても、登場人物の名付けに、どのような呪いをどの程度掛けるかは、作品の背景を示す上でとても重要だ。
例えば、『ドラえもん』という作品は、単なる子ども向けコミックやSFコメディの枠にとどまらない国民的作品として親しまれているが、主要登場人物の名付けを注意深く見てると、その重要性がわかる。

 

野比のび太」「骨皮スネ夫」「剛田武」「源しずか

 

お分かりいただけるだろうか?『ドラえもん』が秀逸なのは、まず「ある」名前と「ない」名前のバランスが半々に設定されている点である。私は断言できる。もし全員が「ない」名前のキャラクターならば、『ドラえもん』は現在ほどの地位を築けてはいないだろう。

ドラえもん』が誰もが親しめる作品となり得ているのは、「剛田武」と「源しずか」が「いる」からだ。

 

小学生の頃を思い出して欲しい。のび太のように、残忍さと優しさ、愚かさと賢明さ、さまざまな矛盾を兼ね備えた稀有な少年は、周りにいなかったかもしれない。大豪邸に住む社長御曹司も、公立小学校にはいないだろう。だが、ガキ大将は絶対にいたはずだ。ガキ大将のいない小学校などこの世に存在しない。中流階級家庭のおしとやかな女の子も絶対にいる。『ドラえもん』では「いる」キャラクターに「ある」名前が付けられている。そして彼ら4人が集う場所こそ、「空き地」というまっさらな、無記名の空間なのである。

 

これだけでも『ドラえもん』の舞台設定がフィクションとして完璧なことがわかるが、結局、我々はのび太ドラえもんの側からではなく、剛田武源しずかの側から作品世界に入っていき、空き地のおかげでフィクションとの邂逅を果たすことができるのだ。

 

恐怖の扉

話を『silent』に戻そう。

青葉紬(あおばつむぎ)、佐倉想(さくらそう)、戸川湊斗(とかわみなと)。

改めて考えても、彼らの名前に人間の痕跡は見当たらない。誰がどこで、どんな思いで彼らを産み出したのか、全く見えてこない。それどころか、やはり敢えてそういった情報、「歴史」を排除して、キャラクターを抽象的な存在に仕立てあげようという意図が明確に感じられる。


「恋愛」と「コミュニュケーション」が主題なのに。まさか、「恋愛」と「コミュニュケーション」が主題だから……???

 

この辺りはあまりにも恐ろしいトピックなので、私にはまだ踏み込めない領域であるが、昨今のフィクションの傾向として、名付けの抽象性は明らかに指摘できる点だと思う。
『君の名は』だって瀧(🌊)と三葉(☘️)だ。

 

歴史なんてないさ、歴史なんてウソさ

この「歴史」の不在性は、21世紀の日本の雰囲気と呼応しているように思われる。

21世紀において、日本という国家や文化は歴史的連続性から切り離され、ぽっかり宙に浮いているように感じる。例えば太平洋戦争における日本の戦争責任や加害の歴史は殆どと言っていいほど顧みられない。
終戦の日に近くなると、毎年テレビで特番が組まれたりするが、「平和」という漠然とした言葉に包摂され、何ら具体的な反省も、大日本帝国と現在の日本政府、政党の連続性も示さない、単なる空虚な恒例行事と化している。


伝統文化に関しても外国人観光客向けのセルフ・オリエンタリズムと言いたくなるような表面的なイメージばかりが先行し、「クールジャパン」などという哀れな形容を自ら生み出すほどの有様だ。祭りに行っても盆踊りのひとつもまともに継承されておらず、民謡を歌える人もほとんどいない。民間レベルでは伝統などとうに消え失せている。

 

恋愛という主題は、いまや歴史から切り離された人間たちの慰みものになっているのか。

昨年の命名調査で、『silent』の流行を受けて「紬」「湊斗」「想」が大きくランクアップする動きがみられた、という記事をネットニュースで見た。ゾッとするようなオチである。

 

言葉はまるで雪の結晶 君にプレゼントしたくても
夢中になればなるほどに 形は崩れ落ちて溶けていって消えてしまうけど
でも僕が選ぶ言葉が そこに託された想いが
君の胸を震わすのを 諦められない 愛してるよりも愛が届くまで
もう少しだけ待ってて
Subtitle-Official髭男dism

 

そんな訳あるか。言葉は「呪い」だぞ‼️