ミュージック・フロム・でかぴんく

大日本カルト共和国衰退の歴史。

右眼の視えない祖母

「橋本さん。私の父方の祖母は在日朝鮮人なんですよ。もともとは秋田に住んでいましたが、早いうちに両親を亡くし、そのあとは二人の姉と一緒に秋田を出て四日市に移り住みました。姉二人は工業地帯付近の繁華街で水商売をやっていましたが、祖母は新造のデパートの販売員をやりながら美容師学校に通い、何年かして資格を取ったあとは名古屋の美容室で働きました。そこで一時の出稼ぎに出ていた祖父と出会い、うちに結婚して祖父の実家のある三重県志摩市の漁師町に移り住み、程なくして私の父を産みました。父が5歳になる年の初夏の昼下がり、祖母が庭先に出て畑仕事をしていると、あまりの陽気につられてしまったのでしょうか、子どもの時分に聴いたハングルの歌が口から漏れていたそうです。しかし不運なことに、通りがかった数人の子どもがその歌を聴き、『朝鮮人が朝鮮の歌を歌ってるぞ!』と騒ぎ立て、祖母に向かって石を投げ始めました。そのうちの赤ん坊の拳大の石が祖母の右目に当たり、祖母は大怪我を負いました。漁から帰ってきた祖父はその傷を見るなり動転し、ともかく村の医者に連れていきました。しかし、村の医者は『朝鮮人の病気は診られない』と言って治療を拒否するので、祖父は市内の大病院まで車を走らせました。片道2時間の道のりを往復して、家に帰るのは夜の7時くらいであったそうです。その間、父はたった一人で両親の帰りを待っていました。村には車二台がまともに通ることのできる道が一本しかなかったので、堤防に沿って市内に伸びているその道を、父は窓からじっと見ていたそうです。祖母はその怪我で右眼の視力をほぼ完全に失いましたが、村八分にあうのを恐れてか障害年金の類は一切受け取りませんでした。不自由ながらもその身体で一家を切り盛りし、父とその妹を育て上げました。父は小学校にあがるとすぐに苛烈ないじめにあいました。棒でぶたれたり、からかわれたりと、毎日のように悲惨な目にあって帰ってきていたようです。父はその反動からか、高校に入ってからは猛勉強して国立大学の医学部に進学。栃木の大学寮に入って村を出ました。妹の方はそんな兄の姿を見て育ったこともあってか、悪意の標的から逃れる術を心得ていたようで、並の成績で高校を卒業したあとは大阪のレンタカー会社に就職。結婚して今もそのまま大阪に住んでいます。兄妹は若いうちから、両親をこの村から出そうと引越しを勧めていたようですが、当の本人たちが『今さら別の場所に移り住むのも面倒だ』と言ってためらうので、次第に諦めて、住まいについては何も言わなくなったようです。それでも盆に一家が集まる時には、この兄妹はいつもどこかやり切れない曇りを抱えているように見えます。盆暮れになると、隣家にあたる家々は古くからの因習で、庭先で若い松の木を焚いてその煙に乗せて祖先の霊を送るのですが、私たちの家は仏壇に慎ましく線香をあげるだけです。そういう時、私は弟や従兄弟たちを連れて夜の散歩に出かけるのです。まだ幼い兄弟たちは肝試しの気分でおどけたり、こわがったりします。ひんやりと湿った海風が肌を撫でる村の空気には、松の濃い煙と、松ヤニがバチバチと弾ける音が充満して、私たちは目をしばたかせながら家に帰ります。橋本さん。私の家族が橋本さんになにかご無礼を働いたでしょうか。私たちの誰かがあなたから大切なものをひとつでも奪ったでしょうか。私はあなたのことを仕事ができて、情にも厚い立派な方だと思って尊敬して参りましたが、今日は美味しくお酒が飲めそうにないのでこれで失礼します。橋本さんならわかっておられると思いますが、謝って済むようなことではないので、謝罪などはなさらないで下さい。今後二度とそのようなことを口に出さないで頂ければ結構です。それでは。」