ミュージック・フロム・でかぴんく

大日本カルト共和国衰退の歴史。

オタクはどこから来たのか 1〜大衆文化とまなざしの不在〜

ポピュリズムと大衆

少し唐突だが、私たちの生きる現代において、「大衆」という言葉は様々な意味で用いられる。

私が「大衆」という言葉を意識し始めたのは、2019年頃からだろうか。「大衆」というからには、それは独りでにやってくるものではない。

 

2019年は、池袋母子死亡事故をきっかけに、「上級国民」という言葉がネットで一般化した年であり、それに呼応するように、大衆という言葉の意味もきな臭い風味を帯びてきた。

同年の第25回参議院選では、自民党議席を減らす一方で、維新が躍進し、れいわ新選組NHKから国民を守る党からも議員が誕生した。いわゆる「ポピュリズム」台頭の年である。

 

とは言ってみたものの、近年ますます異形化するポピュリズムの内実は、従来の意味での「大衆的」という形容を、そのまま当てはめるだけでは到底理解できない、というのもまた事実である。
ポスト・トゥルース」という言葉が示唆するように、ネットを媒介に増殖するポピュリズム的な何かは、それ以前にもあったような、単なるカリスマ、単なるカルト、単なるデマゴーグを超えている。それらを説明しようとする様々な立場は非常に興味深い言論を生んでいるが、今回は、新たなる異形に立ち向かう前に、今まで「大衆」とされてきたものが、一体どのような人々だったのか、その意味と価値を再検討するところから始めたい。

 

「大衆」とは何者か

「大衆」の意味を明らかにするためには、「大衆でないもの」を考えてみるのがわかりやすい。

「大衆でないもの」と言われた時に思い浮かぶ様々な肖像を見渡してみた時、大衆でない人々にある共通点が備わっていることに気付かされる。それは「目が合わない」ということだ。


今まで我々が出会ってきた、偉人や貴人と呼ばれる人々の像や絵画、写真の中に、こちらを見つめているものが一つでもあっただろうか。

たしかに、目線がこちらの方向に向いていることはあったかもしれない。だが、その焦点は、いま私が立っている位置の遥か遠くを見つめているに違いない。

一万円札を頭に思い浮かべてみてほしい。億単位の大衆が血眼でそれを追い求めている一方で、福沢諭吉はまるで彼らがまるごと眼中にないかのようにそっぽを向いているはずだ。

 

文化と大衆

彼ら大衆でない人々の中で、こちらを見つめている者は、もはや七不思議と化したあの音楽室のバッハくらいのものだろうか。

思い返してみれば、我々があの肖像画特有の威厳にはじめて出会ったのは、小学校の音楽室だったのではないか。

非大衆的なものの代表としてクラシック音楽を挙げるのは、いささか陳腐な発想ではあるのかも知れないが、大衆文化以外の文化を見つけるのが困難な現代社会において、あの偉大なる作曲家たちの顔ぶれは、多くの人が共有する非大衆的なもののささやかな原体験として考えてみる価値がありそうだ。

 

「まなざし」の文化論

ここで、大衆と非大衆の対立関係を、「まなざし」という観点から捉える試みを、演芸文化の領域に当てはめてみたい。
いまや消費文化の一カテゴリーでしかないとはいえ、クラシック音楽は、歴史的にみれば、紛れもなく貴族文化である。その非大衆性は、オーケストラ・コンサートの舞台設計の中に、象徴的に現れている。


オーケストラの一般的な布陣は、指揮台が中央に置かれ、そこに立つ指揮者を取り囲むように各楽器が配置される。100名を超えるフルオーケストラが、同心円状に整列した光景は、張り詰めた威厳を感じさせる。この人物の配置におけるある種の様式美は、音響的な合理性だけで導き出された訳ではない。

「まなざし」という観点から考えると、この配置が、観客の視線を意識してデザインされたものであることがわかる。御察しの通り、このオーケストラの配置は、観客の位置からでは誰とも目が合わない仕組みになっている。演奏者の視線は指揮者に集約されており、観客からのまなざしと重なることはない。そして、当の指揮者こそは、観客に背を向けて立っている。クラシック音楽における指揮者は、大規模なオーケストラの演奏に秩序を与える役割を持つのみならず、コンサートの場において、その文化の威厳と格式を演出する舞台装置としても働いている。
この一点だけでも、クラシック音楽がいかに超越的な美を求める文化であるかは明らかであろう。観客は、その席に座って演奏を聴いている間、いま目の前にあるはずの美を決して真っ向から見つめることはできない。その美の円の中心に立つ指揮者の位置に立つことはおろか、その表情を掠め見ることも許されず、彼の背から漏れる影を闇の中で捉えることしかできない。イデア論的な美の世界を舞台上に見立てているのである。

 

4人は「アイドル」

クラシック音楽のこの特徴を踏まえると、大衆演芸の定義は極めてわかりやすくなる。

ビートルズを例に考えてみよう。ビートルズは全員が観客の方を真っ直ぐに向いている。体の向きが客席に対して直角なのだ。観客は「ポールと目が合った!」と大喜び、泡を吹いて失神する客もいる。

彼らは「アイドル」だ。

クラシック音楽ビートルズを「まなざし」という観点で比較するならば、前者がイデアの世界なのに対し、後者はアイドル・偶像の世界だ。ジョンやポールと目が合うことにそれだけの力が宿る理由は、それが美の顕現に見立てられているからである。

 

見る/見られる

西洋哲学の用語から離れて、大衆演芸の意味を語るならば、それは「見る」ことにおける主客の逆転と捉えることもできる。
「目が合う」という現象は、観客と演者の間にあったはずの「見る」「見られる」という関係を、一瞬にして逆転させてしまう。誰からも顧みられなかった一人の存在が、思いがけずその強烈な眼差しに晒されるその瞬間に、人間は芸の道に見入られる。

日本の歌舞伎、中国の京劇。どちらも眼を大きく強調させる隈取りの化粧が特徴的な文化だが、いちばんの醍醐味はやはり「見栄を切る」所作であろう。

時代に翻弄される二人の京劇俳優を描いた名画『さらば、わが愛/覇王別姫』には、この見栄の迫力が見事に表現されたシーンがある。2人の演者が客席の方を睨むと同時に銅ばつがバシャン!と打ち鳴らされ、その鋭い音が一瞬のうちに観客の喉元に迫る。この視線の交錯。舞台に惹き付けられた観客の眼差しを、役者の芸が睨み返すその一瞬こそが、大衆演芸の悦びだ。

 

そこには、オーケストラのコンサートにあった張り詰めた緊張とはまた別の緊張がある。観客の視線を直に浴びるということは、表現の意味や価値に関する決定を、観客に委ねるということだ。自分の表現が、どんなふうに「見られる」か、わからない。他者を相手にするということはそういうことである。しかし、だからこそ、そのようなままならなさを真っ向から引き受けて立つ者は美しい。向き合って立つ、そのことによって投げ返される強烈なまなざしにこそ、我々は打たれるのだ。

 

めちゃめちゃつづく𝓉ℴ 𝒷ℯ 𝒸ℴ𝓃𝓉𝒾𝓃𝓊ℯ𝒹