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大日本カルト共和国衰退の歴史。

ヘイト漫才は漫才か。 M-1から考える「笑い」の社会性

ヘイト漫才 

 毎年この時期になると、M-1グランプリに向けた期待の高まりに伴って、予選のニュースがじわじわと話題にのぼり始める。

 今年は、女子小学生コンビの「ラブリースマイリーベイビー」や、なかやまきんに君ケイン・コスギの「パーフェクトパワーズ」など、個性的な面々が予選を賑わせている一方で、漫才を騙ったヘイトスピーチを披露するコンビが批判の的になっている。

 予選のネタはYouTubeで見れるようになっているので見てみたのだが、吐き気を催すほどの幼稚で下劣な民族差別を、恥じるどころか得意になって喚き散らす大人2人の姿にはめまいがするばかりで、とても芸と呼べる代物ではなかった。まともに取り合う価値がないので、当のネタについてはこれ以上言及しないが、反対に、芸とは何かという問題をここから出発させてみることとする。

「Q.漫才とはなにか」

 「ヘイト漫才は漫才か」と問うたはいいが、そもそもそんな問いが問題になり始めたのはいつ頃からだろうか。最も記憶に新しいのは、2020年のM-1グランプリだろう。優勝したマヂカルラブリーのネタは、舞台上を激しく動き回り、しゃべり以上にアクションでボケを表現しているという点で、「漫才ではないのではないか」という見方が論争の種になった。

 このように振り返ってみると、2019~2020年は漫才の世界が大きく問い直された時期であると言える。2019年のM -1でブレイクしたぺこぱが「誰も傷つけない笑い」としてお茶の間に受け入れられた一方で、THE MANZAIで「社会風刺」ネタを披露したウーマンラッシュアワーは、お世辞にも歓迎とは言い難い、冷ややかな視線を浴びることとなる。

 しかし、この時期に投げかけられたさまざまな問いに対して、明確なアンサーが表明されることはついになかった。コロナウイルスを経て、お笑いの世界はSNSYouTubeを起源とする新しい潮流に塗り替えられてしまったように思える。その波は、既存のテレビ的なウケ方に寄り添うわけでもなく、はたまた対立するわけでもなく、いますぐ何かを穿つことのない流動体として、タイムラインに寄せては返している。

 「漫才とはなにか」そんな問いがあったことさえ忘れ去られたこの年に、ヘイト漫才がM-1の舞台を汚したのは、まさに2023年という年を象徴する出来事のように思われる。ポピュリズム陰謀論が、自民党によって食い荒らされた日本人の内面の、最後の皮膜までを食い破ろうとしている今、我々は考えなくてはならない窮地に陥ったのだ。「漫才とはなにか」を。

罪と罰』?

 前提として、漫才は非常にシンプルかつ特異な構造を持つ形式だ。センターマイクを挟んで、突拍子もない言動を繰り出すボケと、それを鋭く正すツッコミの二役によって構成される掛け合いの様式が漫才の基本であるが、これは単純な図式であると同時に、それが生み出す笑いの世界は、一言ではなかなか説明がつかない。アメリカのスタンダップ・コメディのような「道化」の世界とも違えば、ドリフのコントのような「滑稽」の世界とも違う。漫才が作り出す笑いは、世界を見渡しても類型がないのではないだろうか。私は、この日本に特有の笑いの世界を、「赦し」の世界と位置付けてみたい。

 まず、漫才において、ボケとツッコミの掛け合いが生み出すコミュニケーションを、「倫理」という観点から整理してみたい。「倫理」という観点から漫才を見てみると、ボケが繰り出す突拍子もない言動や、逸脱した行為は、倫理規範の侵犯と位置付けることができる。ボケは既存の社会的規範や道徳の中では通常疎んじられるような行動や、禁止されている行為を犯す。ツッコミは、ボケの犯した禁忌が観客の心を動揺させる寸前で、鋭く相方を罰する。社会道徳に裏打ちされた迷いのないどつきと、筋の通った正論で、ボケの罪を咎め、諌める。この繰り返しが漫才である。では、この倫理に対する侵犯と、それへの罰という過程の中で、「笑い」の占める立ち位置とは何なのか。それが「赦し」なのだ。「倫理」という観点からみると、漫才とは、ボケの罪をツッコミが罰し、観客がそれを赦す、という協働的なコミュニケーションに他ならない。このコミュニケーションが健全なものとして成立するためには、ボケの罪は赦されうる程度の罪でなければいけないし、ツッコミによって下される罰は罪に対して過剰であってはいけないし、反対に不足していてもいけない。そしてなによりも特徴的なのは、その過程が赦しうるものであるかどうかの判断が、観客自身に委ねられているということだ。言い換えれば、観客にウケなければ、その「罪と罰」は受け入れられないものと看做されたことになる、ということだ。観客は、自身の笑いによってその過程に赦しを与えている。

 これらの特徴から鑑みても、漫才という芸は非常に社会性の強いコミュニケーションだと言える。愚か者を演じる道化を、観客が一方的に「嘲笑」するコメディとも違えば、世界の様相をまるごと「おかしみ」の方向にずらすコントとも違う。漫才とは、人間が互いを尊重して生きていくために必要な倫理を維持しながらも、その倫理をあくまでも道具として、健全に機能させていくために必要な「赦し」を、「笑い」置き換えて演じてみせる芸なのだ。

 「誰も傷つけない笑い」が肯定的に取り上げられた当時、その風潮に対して「コンプライアンスに縛られてやるお笑いなんてつまらない!」という訴えから批判的立場をとる者もいたが、漫才に限って言えば、そのような主張は的外れも甚だしい。漫才が「倫理」を材料にしている以上、コンプライアンスこそが漫才であり、コンプライアンスがなければ漫才は成立しない。赦されうるギリギリの逸脱に対し、道徳的に適切な咎め方がなされ、その過程を観客という総体が認めた時、初めて「赦し=笑い」が生まれる。漫才とは、我々人間が、互いのために倫理(コンプライアンス)の健全な調整を図る過程そのものである。

思いっきり笑うために

 以上のことからも明らかなように、漫才が芸人と観客との協働的なコミュニケーションである限り、それが「漫才であるか否か」を決めるのは、私たち観客なのだ。他者の尊厳をいとも簡単に踏み躙り、人権を無視するような行為が横行する現在だからこそ、我々は今まで以上に、自らの「笑い」が持つ意味に自覚的にならなければならない。目の前で行われている行為を赦すべきか否かは、私たち自身が決めなければならない。超えてはいけない一線を超え、他者の尊厳をおもちゃにする「さぶいボケ」や、弱い立場の人を標的にして、的外れな罰を与えようとする「わかってないツッコミ」に対して、我々は冷ややかな沈黙で答えなければならない。来場者アンケートにはありったけの悪口を書いてやる。こんな世の中だからこそ、思いっきり笑いたいからね^^