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大日本カルト共和国衰退の歴史。

漫才論Ⅱ 「誰も傷つけない笑い」の矛盾

漫才再考

2023年のM-1グランプリが終わってしばらく経ったが、やはり私は漫才について書くことを我慢できない。

このブログでは、以前にも「ヘイト漫才」の炎上を題材として、「漫才とはなにか」という問いを考えてみた。その記事では、漫才を「倫理」という観点から紐解くことで、《ボケ=ツッコミ=観客》の関係性を、「赦し」のコミュニュケーションとして位置づけた。

詳しくは前の記事を読んで欲しい。

 

赦されうるギリギリの逸脱(=ボケ)に対し、道徳的に適切な咎め方(=ツッコミ)がなされ、その過程を観客という総体が認めた時、初めて「赦し=笑い」が生まれる。

 

その協働的なコミュニュケーションは、現在の共同体で共有されている、あるいは共有されるべき倫理規範の内容を確認する過程として働くと同時に、私たちが、倫理を、あくまで健全に共同生活を営むための道具として用いるために必要不可欠な、「赦し」の訓練としても機能していると言えるだろう。

 

といった話を考えたのはもう2ヶ月前になるが、Twitterなどで今年のM-1の反響をリアルタイムで見る中で、やはり私のこの考えは、間違っていなかったと確信するに至った。

観客は、漫才を評価する上で、明らかに「倫理」を基準にしている。観客の批判の対象になっていた内容のひとつに、さや香の1本目のネタがある。オチとも言える「ブラジルからの留学生がおっさんであるならば、ホームステイは受け入れられない」というボケには、「笑えない」というコメントが多く見られた。

 

これがネットで酷評の的になった理由を、単に倫理を著しく犯しているからだと捉えるのは間違いだ。「赦し」という観点からこの「スベり」を解釈するなら、倫理を逸脱していることそのものが問題なのではなく、その逸脱が、ネタの中で十分に咎められることがなかったことが問題なのだ。

「スベり」の正体

さや香のネタでは、上記のボケは、それまでツッコミ役であったはずの新山によって繰り出された。これはかなり挑戦的な転倒であると言える。逸脱を正す側に立っていた人間が、その正しさを振りかざすあまり、いつの間にか倫理を歪なものに変えていく光景は日常でもよく目にするものだが、だからこそ、その逆転は観客を大きく動揺させる。つまり、その大きな逸脱を笑いに昇華させるためには、それに見合うだけの厳しい、烈火のごとき罰(ツッコミ)が必要なのである。

しかし、この逆転は4分間のネタの最後の30秒で起こった。罰し切るにはあまりに時間が足りない。その上、石井のツッコミも激しい糾弾というよりは、シュールさを狙った引き気味の反応であり、明確に批判の言葉が出たのは、最後の「めちゃくちゃやで、もうええわ!」のみであった。罪に対して罰が軽すぎる場合、観客はそれを赦すことはできない。

 

批判が出るのは常にこういった、ボケとツッコミの不均衡故である。しかし、逆に捉えれば、その場でこのネタがウケるかどうかは、観客が新山の逸脱をどれくらい重く捉えるかに懸かっている。新山の逸脱を「そりゃおっさんは嫌だけど、そんなに大声で言っちゃダメでしょ笑」くらいに捉えるなら、ツッコミはあの程度で十分なのかもしれない。そのような倫理を持つ人であれば、もしあの場で石井が、新山の声量を上回る勢いで、激しくどついたりしたら、むしろやり過ぎと感じて、冷めてしまうだろう。

評価が別れたのは、観客の間にそうしたグラデーションが存在する証拠だ。

赦せないものしか赦せない


「赦し」という観点から漫才を眺めるうちに、そのコミュニュケーションが、ある大きな矛盾を孕んでいることに気づく。

それは、我々は「赦し得ないもののみを赦し得る」という矛盾だ。

ヘーゲルが『法の哲学』において、「所有」を可能にしているものとして「譲渡可能性」を示したのと同様に、「赦し」においても、「当人の反省の度合いや、その社会的な処罰の程度によっては、赦さない場合も有り得る」という前提が、「赦し」という行為を可能にしているのだ。

 

この矛盾が示唆することは、「赦し」が、自己と罪との間の閉じた関係としてではなく、罪に対する罰を含んだ社会的なコミュニュケーションの中で、相互に承認されることによってはじめて可能になるということである。

 

「赦し得るもの」と「赦し得ないもの」が、倫理の側から所与のものとして与えられているのではなく、私たちは、「なにを赦すべきで、なにを赦すべきでないか」を社会的なコミュニュケーションの中で、共に考えて判断を作っていかなければいけないということだ。

その過程なしに、「赦し」は実現し得ない。もしも、我々がその三者のコミュニュケーションを放棄するならば、待っているのは他者を顧みない暴力と、同じく自己のためだけにそれらを弾圧する権力との、純粋な戦争状態である。

倫理の時間


私たちは、コミュニュケーションを辞めてはならない。私たちに許されているのは「笑う」ことだけではない。「笑わない」こともできる。笑いは言語である。私たちは日々、笑いによって、なにを赦して、なにを赦さないのか、相談をしているのだ。

場合によっては笑い、場合によっては笑わなかったりする。

それが倫理を形作るということである。

 


つづくかも笑